ごあいさつ 兼松 一二(かねまつ かつじ)牧師

スーパーへ行くのは、食料の買い出しのためです。
モールに行くのは、時間的ゆとりがあって、食料、衣料品を買うだけでなく、食べる楽しみ、見る楽しみを兼ねています。
では、教会は何のためにあるのでしょうか。「自分が神さまに愛されていることを知るため」に欠かせないところです。そして「自分も他人を愛せるように訓練されるために」必要なところです。
見えない神さまが、私をどういう形で愛してくださっているでしょう。神が、ひとり子イエス・キリストを私たちのところ、この世に送ることを通してです。
自分が神さまに愛されていることが分っていく時、確実な心のよりどころを持ちます。生きがいを感じます。神さまを仰ぐとき、喜びと希望があります。
私たちはあやまちや失敗の多い者です。気がついた時には、自分の心も気構えもゆがんでしまっていて、悩む者です。しかし、神さまはイエスさまのことばを介して、新しく生まれ変わらせます。
ぜひ、あなたのありのままで、教会にお越しください。
私たちの教会が信じていること
1. 新旧両約聖書は、66巻よりなり、その原典において神の霊感を受けた誤りのないことばであり、キリストによる救いと信仰生活の権威ある書である。
2. 万物の創造者である神は唯一であり、父、子、聖霊の三位一体において永遠に存在されるかたである。人はこの神のみを礼拝すべきである。
3. 主イエス・キリストはまことの神であり、また聖霊によりやどり処女マリヤより生まれ、まことの人となられた。罪も誤りもなく、私たちを罪から贖うために十字架の上で死んで葬られ、三日目にからだをもってよみがえり、天にのぼられた。現在神の右に座し私たちの救いを全うするためにとりなしておられ、やがて再び来られる。
4. 聖霊は、罪人に罪を悔い改めさせ、イエス・キリストへの信仰に導き新たに生まれさせ、信じる者のうちに住み、キリスト者としての生活と奉仕をするために、教え、導き、力を与えるかたである。
5. 最初の人アダムは神のかたちにつくられたが、サタンに誘惑され、神の意志にそむき罪を犯した。その結果、人は神のかたちをそこない、神との交わりから絶たれた。人はすべて神の前に有罪であり、神の怒りと刑罰を受ける者である。
6. 人が義と認められるのは人間的行為の功績によってではなく、キリストとキリストがなしとげられたみ業とに対する信仰のみによる。まことの信仰は御言葉に基づく悔い改めとキリストに服従しようとする願いとによって証しされる。
7. まことの教会はキリストのからだであり、そのかしらはキリストである。すべてのまことのキリスト信者は時間と場所をこえて、この一つの教会につらなっている。
8. 個々の地区協会は聖書のことばに基づいて共に礼拝し、バプテスマを受け、主の聖餐にあずかり、一致して福音を宣教するキリスト者の群れである。そこでは必要な場合、教会のきよさを守り、健全な信仰に導くために戒規がおこなわれねばならない。
9. 天使はキリスト者に仕える霊的存在である。一方サタンと悪霊はキリストとその信仰にそむかせ、神から栄光を奪おうとする霊的存在である。
10. 終わりの時に主イエス・キリストは御からだをもって再臨され、生ける者と死から甦えらされた者とを審判される。キリスト者はすべて義なる者として天に上げられ、神と共に永遠の祝福にあずかり、信じない者はゲヘナにおいて永遠の刑罰にあい、神からひきはなされる。
キリスト教について
つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 在原業平
古今和歌集・一六・哀傷・八六一
※「つひに行く道」とは、「死」のことを言っています。
(現代語訳)人間死ぬということはかねてから聞いていたけれど、それが昨日今日だとは思わなかった。
この歌の前には、「病して弱くなりにける時よめる」とあります。作者は、病気にかかっていました。病気で体が弱くなっていて、もう自分の死がすぐ近くだと悟ったのでしょう。ただ、それがまさか今昨日今日だとは思わなかった、と言うのです。
死は、例外なく、誰にでもやって来るものです。
ですが、生きていて、自分の死を意識するということは少ないです。(この歌の作者のようになったり、ひどい事故に会って、命に関わる状態になったりしたら、死を意識することが多くなると思いますが)
ただ、人間の死亡率は100%なのだから、いつかやってくる自分の死に対して、何か準備をすることは、やった方がいいことです。自分の死に対して、準備を色々すれば、自分の死ぬのが近いと分かった時に、ほとんど準備しないよりも、安心をします。
私は、『よく生き よく笑い、よき死と出会う』(アルフォンス・デーケン著、新潮社、2009)という本を読んで、この文章を書いているのですが、「よき死と出会う」というのが、目指すところだなと思いました。このデーケンという人は、死について、色々な側面から研究する「死生学」というものを、日本で広めたドイツ人です。死生学は、死んだらどうなるのか、ということもテーマの一つとして存在しています。先程の本の中で、デーケンは、哲学者のカントや、文学者のゲーテの死後についての考え方を挙げて、結論として、「死後の生命は存在する可能性は大きい」と言っています。
キリスト教は、死後の生命があるということを言っています。イエス・キリストを信じれば誰もが天国に行けることになっています。天国は、「*もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」場所です。幸せしかない場所です。
*ヨハネの黙示録 二十一章四節(『聖書 新改訳 2017』<新日本聖書刊行会訳、いのちのことば社、2017>)
