キリスト教について

つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを  在原業平

                       古今和歌集・一六・哀傷・八六一

 ※「つひに行く道」とは、「死」のことを言っています。

 (現代語訳)人間死ぬということはかねてから聞いていたけれど、それが昨日今日だとは思わなかった。

この歌の前には、「病して弱くなりにける時よめる」とあります。作者は、病気にかかっていました。病気で体が弱くなっていて、もう自分の死がすぐ近くだと悟ったのでしょう。ただ、それがまさか今昨日今日だとは思わなかった、と言うのです。

死は、例外なく、誰にでもやって来るものです。

ですが、生きていて、自分の死を意識するということは少ないです。(この歌の作者のようになったり、ひどい事故に会って、命に関わる状態になったりしたら、死を意識することが多くなると思いますが)

ただ、人間の死亡率は100%なのだから、いつかやってくる自分の死に対して、何か準備をすることは、やった方がいいことです。自分の死に対して、準備を色々すれば、自分の死ぬのが近いと分かった時に、ほとんど準備しないよりも、安心をします。

私は、『よく生き よく笑い、よき死と出会う』(アルフォンス・デーケン著、新潮社、2009)という本を読んで、この文章を書いているのですが、「よき死と出会う」というのが、目指すところだなと思いました。このデーケンという人は、死について、色々な側面から研究する「死生学」というものを、日本で広めたドイツ人です。死生学は、死んだらどうなるのか、ということもテーマの一つとして存在しています。先程の本の中で、デーケンは、哲学者のカントや、文学者のゲーテの死後についての考え方を挙げて、結論として、「死後の生命は存在する可能性は大きい」と言っています。

キリスト教は、死後の生命があるということを言っています。イエス・キリストを信じれば誰もが天国に行けることになっています。天国は、「*もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」場所です。幸せしかない場所です。

*ヨハネの黙示録 二十一章四節(『聖書 新改訳 2017』<新日本聖書刊行会訳、いのちのことば社、2017>)